バンド結成は1994年でドイツ統一後であるが、メンバーは統一時に19歳から27歳で、東ドイツ体制下で育ち、生活してきた。

東ドイツの体制はミュージシャンにとって活動しやすい環境ではなかった。メンバーの中には逮捕されたり取り調べを受けた者もいる。

ラムシュタインのメンバーにはいないが、逮捕・拘留を免れるために秘密警察の非公式協力者になった者もいる。(Die Firmaのフランク・トレーガーやタチアナ・ベッソンなど)ただ個性の強いミュージシャンたちが結成後四半世紀もの間、一人のメンバー交代もない忍耐強さは共産主義体制の中で培われたものかもしれない。

 

1.上演許可証(Spielerlaubnis)

上演許可証がなければ上演できなかった。この許可証とギャラ格付けは役人と音楽教師が判定した。判定のための検査には25曲のレパートリーを提示し、そのうちの60%(15曲)は社会主義国の曲でなければならず、40%(10曲)は西側の曲でよいとされた。許可証なしに上演し、ギャラを得ると逮捕された。

 

2.楽器の調達

これも大きな問題でキーボード奏者のクリスティアン・フラーケ・ロレンツは2000東ドイツマルクの中古の有名メーカーのオルガンを買ってもらったが、これは彼の父の給料の2.5か月分に相当した。しかしそれまでは1回ごとに50東ドイツマルクを払って他人から楽器を借りていた。また彼の元の主要バンドであるFeelingBのリーダーのアリョーシャ・ロンペがスイスのパスポートを持っていて、自由に旅行する権利を有していたので、ロンペが西側でカシオのシンセサイザーを買ってきてくれた。ロンペはそのほかにも西側から多くの楽器を持ち込んだらしい。ロレンツは両親の理解と特権を持った仲間のおかげでキーボード演奏の楽器に恵まれたが、他のミュージシャン達はなかなかこのような幸運にはありつけなかっただろう。実際彼は東ドイツ時代の末期に、東ドイツではキーボード奏者が不足していたので、色々なバンドからゲスト奏者としての依頼が来たようである。

 

3.プロになれない

そもそも東ドイツでは職業選択の自由はなく、国家の命令で職業・職業教育先が決められた。

プロになるには音楽大学卒業などの肩書が必要だったので、彼らは当然アマチュアであった。

また勤労の義務があったので、ミュージシャン以外の仕事もしなければならなかった。

リヒャルト・Z・クルスペは子供の頃教師に音楽的才能を認められていたが、レスリング選手になることを命令されていたので音楽の授業を受けられなかった。

子供の頃から音楽に親しみ、オペラ監督で音楽大学教授の父を持つクリストフ・シュナイダーでさえ無線技師の学校に行かされている。

 

4.彼らの復讐?

PV「Ich  will」で銀行強盗を演じているシーンがあるが、あの建物は撮影当時は空き家だったが、もともと東ドイツ時代は国家評議会の建物であり、これは東ドイツの最高権力機関で、東ドイツの最高権力者は代々、「国家評議会議長」の肩書を持っていた。

そこを襲うのだからこれを東ドイツ時代に本当にやったらクーデターである。彼らにとってさぞ痛快であったことだろう。